2004年の夏、僕はフランスのパリにいた。パリの13番地区に宿を取り、毎日バスで出かけた。暑い夏だったがそれでも風は乾燥していて、日陰に入ると驚くほど寒かった。それがパリの夏だった。道を行く人は東京のように早足だった。色鮮やかなかばんが日本に比べてかなり安価な値段でショーウィンドウに並べられていた。
いつも乗るバス停のそばにGodivaの小さなお店があって、老婆が沈んだ暗い店内の中に鎮座していた。日本にあるおしゃれな雰囲気のそれではなく、小さなさえないチョコレート屋だった。僕は時々そこに入って、せす、あん、せす、とわ、とかたことでしゃべった。老婆は東洋人だと見ると最初は少しいやそうな顔をしたが、だんだん慣れてきて、僕が店に入るといそいそと立ち上がって迎えてくれるようになった。老婆は英語ができなかった。僕はフランス語がほとんどしゃべれなかった。
じっと気になるチョコレートを見つめていると、彼女はフランス語でなにかぼそぼそと言った。首を振っていたらやめてたほうがいい、ということらしい。これを食べるなんて正気の沙汰じゃないとでも言っていたのかもしれない。うなずくときは大体おいしいもののことが多い。いつもしかめっ面で不機嫌そうな顔をしていた。
宿の主人も英語はしゃべれなかった。ひどいフランス語なまりの英語で、僕にもわかるような単語で、英語はほとんど話せませんと彼は言った。
僕はパリジャンなんです。ばりじゃん?ぱりじゃん。ばり?ちがう、バリじゃないパリ。ばるじゃん。ぱりじゃん!
何度か同じ言葉を繰り返してパリにずっと住んでいるということを意味したいのだとわかったとき宿主と僕はなぜだか大笑いをした。フランス語はほとんどわからない上に英語ですらもおぼつかない僕と、日本語が全く分からず英語は定かでない彼が話すにはジェスチャーと表情が不可欠だった。彼はいつも朝、たっぷりとクロワッサンを振舞ってくれた。コーヒーが苦手な僕に温かいミルクティをゆっくりと入れてくれる人だった。中庭に面した部屋は薄暗く、クーラーがついていないために暑かったが、ひどく静かで、僕はしばしば窓を開けて、暮れてゆく白夜の空を見上げながら、スーパーで買ってきたりんごをかじっていた。
そういえば宿の前には果物屋があった。果物屋の親父は日本びいきのようで、僕が行くと日本人かとつたない英語で尋ねた。やはりひどいフランス語なまりだった。僕がうぃとこたえると本当にうれしそうに、にほんのくだものがあるとフランス語で言った。はっきりとわかったわけではないけれど、その指の先にあるしなびた温州みかん(そういえば品物はほとんど萎びているように見えた)をみて僕はその言葉の意味を理解した。僕はおもわずわぁと声を上げて笑った。親父は太った体を満足そうに揺らした。僕はその店でマスカットとつめたい水を買った。ペットボトルに貼り付けてある値段シールはなぜか同じ商品でも値段がまちまちで、不思議だった。
宿のとおりの角のパン屋には英語が少し話せる店員がいた。そのパン屋は申し訳なさ程度に道にテーブルといすをならべて、お茶を飲めるようにしていた。僕がケーキを眺めていると、彼女はここで食べてゆくのかと聞いた。彼女もまた日本びいきだった。
あなた子供でしょ?違います。大人です。本当に?嘘よ。ちゃんとお金持ってる?あいはぶまにー!
彼女は笑った。ケーキにちょっとだけ生クリームのおまけをつけて出してくれたから、僕はめるしーといった。カフェとエスプレッソとテがあるけどどれがいいかと言われ、僕はテとこたえた。
おれ?おしとろん?おれ。
彼女はにっこりと笑った。僕もにっこりと笑った。日陰のカフェは少しだけ寒かった。僕は両手を紅茶のカップであたためながらゆっくりとケーキを食べ、その店でフランスパンを買い、スーパーで野菜をかって、宿に戻った。
白夜のパリはいつまでも明るかった。