抜粋


 彼はほとんどなにも残さなかった。記憶すらも、彼は自身の中に消し去って一人森に還ってしまったのだった。自身を消し去りたいと願い続けていた彼がなにも残さなかったことを僕は責める気はなかった。
 藍色の空はゆっくりと西へ後退し、山の稜線が赤く染まっている。朱色に染まる天幕の向こうに火が燃え盛り、世界を照らし出さんと控えている。一方で、西には沈みゆこうとする白銀の月が沈黙を守っていた。夜明け。風さえもそのひとときはそよぐことをやめ、森閑とした景色の中に厳とした霊峰が黒い影となってそそり立っている。なにもかもを色鮮やかに映し出す黎明の中で彼は天頂を仰いでいたのだ。それが彼の最後に見た夜明けだった。
 時々、世界はなぜこんなにも美しいのだろうと思うことがある。もう二度と朝がやってくる瞬間を見ることはないと知っていた彼は、その光景を骨にまで焼き付けるように瞬きもせずに仰いでいたのだ。
 彼にとって森は冷酷な敵でしかなかった。与えれば奪い、授ければ壊し、まるで彼をあざ笑うように在った森を彼は憎んでさえいた。だからこそ彼は森を抜けた高原の、更にその上にあるないものも育たない山々と、変わることなく存在する空にただ思いを馳せるしかなかったのだ。その峻烈な色は、彼が生まれ、苦しみ、悲しみ、そして諦観の念を抱いたまま死んでいくまで変わらなかった。